この記事は後編です。前回の記事はこちら

隧道リストでは素掘り隧道とされながらも、コンクリート巻き立てがされている若干詐欺的な旭隧道だがいよいよ素掘り区間に突入する。

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おおっ! ここ本当に現役なのか… しかも車も通行するのか…
写真で見るとかなり白く見えるが明るいライトとストロボを使用しているためで、実際目で見るとここまで白くは見えない。事前調査の際に似たような写真を見つけ不気味さに度肝を抜かれたがそこまででもなかった。 探索時は幸運にも車はやってこなかったがここを歩いているときに車が来たら退避場所はないためどちらかがバックしなければならない。後ろから来られたら気づかれずに轢かれそうだ。

しばらくすると素掘り区間をいったん抜ける。
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通ってきた区間を振り返って撮影。
素掘り区間の断面積の狭さが際立つ。入り口はここまで狭くなかった気がするのだが…
車が通っている様子を見てみたかった気もする。
巻き立ての右側には施工年が書いてある。
写真の撮り方が悪く全文読めないが次のように書いてある。

災害日 昭和53年…
昭和53年度施行
路線名 縣道吉野屋一号線
××名 道路(隧道)災害復旧工事…
竣工昭和×54年3月…

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どうやら災害復旧工事を行ったときに巻き立てにしたようだ。
いや、問題はそこではない。
縣道!?
この道は「三条市道吉野屋一号線」なはずである。厳密にいえば2005年までは栄村である。第一、県道が××一号線なんて名前を付けるはずがない。でもどう見ても縣に見えるのだが… おそらくこれは施行者の書き間違いであろう。そういうことにしておこう。

気を取り直して先へ進もう。
ちなみに昭和53年の災害は6月26日に起きた6.26水害だと思われる。さほど大きくなかったからか新潟県の被災状況の詳しい様子はよくわからなかった。


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先ほどの巻き立てもすぐに終わり、また素掘り区間に戻る。
何気なくスルーしてきたが、巻き立ても現代隧道ではなかなか見られない簡易的で古いタイプのものである。事業用通路かどこかの坑道か… 個人的には黒部の冬季歩道に雰囲気が似ている気がする。違う点と言えばこちらには照明がない上に坑内が水浸しな点だろうか。

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振り返って撮影。事後調査編で詳しく書く予定だが、隧道の壁面の一部は湧水の影響で変色している。
入口が曲がっているせいで振り返っても光は見えず真っ暗闇である。怖がりなので後ろを振り返る行為はほとんどしていない。コウモリの一匹くらいいそうだが生き物は何も見なかった。ゲジゲジもいなくてありがたいばかりである。出てたら隧道内で叫んでいただろう(過去に隧道を覗いていたらハトが飛び出してきて、驚いて叫んでしまい同行者に呆れられたレベルである)

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しばらく進んでから振り返って撮影。
この不気味さにアドレナリンが出まくって怖がりながらもかなりテンションが上がっている。
右上にはフックが打ち付けてあることや、過去に探索された方のブログの写真から、以前には照明設備か電線が通っていたようである。こんな湿度100%で水が流れてくる隧道に電線を通していたら感電しそうで怖いので撤去してあるほうが望ましい。


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今述べた通り隧道内の湿度は大変高く、壁面は結露で濡れている。気温も外とは全く違いひんやりしている。真夏の夜の肝試しにはもってこいだろう。私は絶対やらないが。上部は滴る水で鍾乳石のようなものができていた。こういうものを見ると本当に現役なのか疑いたくなってしまう。


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ふと上を見てみたらすごい光景が広がっていた。ブラタモリで、岩を見ただけで種類がわかるタモリさんと違い地質には疎いので岩の種類はわからない。どなたかわかる方がいらしたらご教授いただきたい。岩のゴツゴツ感が人々が一生懸命この隧道を通した苦労を伝えてくれる気がする。


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一層白さが増した気がするがこれも岩の劣化なのだろうか。少しの災害でも落盤が起き少し前まで通行禁止の看板が立っていた旭隧道だが、毎回補修工事を行い通れる状態にしている。探索時はどこも落盤していなかったが、岩がかけて落ちていることもあるそうだ。
ここまで探索は順調に来たがここで思いがけない不安要素がやってきた。上の写真を見ていただきたい。坑口の光が反射している。要するに手前は水浸しなのだろう。長靴だから30センチぐらいなら何とかなるのだが、それ以上の深さだと突破できない。この後タクシーに乗り、電車にも乗るのにびしょびしょになるわけにはいかないのだ。不安だが進むしかない。

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また吹付区間が始まった。ここは素掘り区間より相当断面積が広いが掘りなおしたのだろうか。
吹付区間にあるアンカーの様なものはよそではなかなか見ることのできない不気味さと特異さを誇っている。大げさに言うとSFのワンシーンのようで興奮していた。

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断線したケーブルがあった。これらは工事の際のみ使われていたようでケーブル以外は何も残されていなかった。

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路面は一応舗装されれていたが水と土のせいであまりありがたさを感じなかった。
隧道内は水の滴る音と流れる音しかせず静寂に包まれていた。唯一響くのは自分の足音と服のこすれる音のみである。

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工事関連設備の痕だろうか。水浸しの穴があらわれた。深いのかと思いきや埋め戻されたのかほんの数センチしか水はなかった。

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轍があることからも自動車が通っていることがわかる。ここを通っている人はさぞかし運転技術があるのだろう。並の人間では擦ってしまうだろう。自分なら絶対にやらない。

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そんかこんなで歩いていたら出口が近づいてきた。
路面全体が濡れているせいで反射していただけで水没はしていなかった。
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20分ぶりに外界を見た。 誰かが小説の舞台にしてもいいのではないかと思うほど緑が美しく見えた。

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そうでもなかった。
ずっと暗闇にいたための錯覚だった。トンネルを抜けるとそこは雑木林だった。

この先をずっと行けば世界一神社というところにつくのだが徒歩で行くには遠いのとタクシーが入り口で待っているので帰ることにする。

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隧道前は離合ができる程度の広場になっているが、左奥には川が流れているので貧弱な路肩にはなるべくよりたくない。


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緑の中に突如現れる穴。外に出てから隧道というよりもはや洞窟なのではないかと思い始めた。
ここはなかなか感動する景色だった。強いて言えば小さなアブのような虫がうざい。

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高さ1.8m、幅1.5mとは書いてあるものの幅が1.5mもあったら上をこすりそうだ。もしも車同士で途中で出会ってしまったら引き返すのは至難の業だろう。

帰りは先の入り口が曲がっているせいでまったく光がない。こちら側から探索し始めたら本当に通れるのか不安になること間違いなしだ。 ライトで足元を照らしながら上機嫌で戻っていった。一通り探索は済ませているので確認し忘れているものをさがしつつ黙々と10分強かけて戻ってきた。
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タクシーが待ってくれている。
湿度が高いせいで、出口に近づくとレンズが曇ってしまう。
緑の反射が美しい。

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レンズのくもりに気が付かず撮ってしまっていた。

隧道の往復所要時間は約35分。
最初は隧道なのにだんだん洞窟のようになっていき、また隧道に戻る。古い巻き立てから現代的な吹付
、素掘りまでありとあらゆる隧道要素が盛り合わせになった贅沢な隧道だった。ここまで目を楽しませてくれる現役隧道もなかなかない。
この後は泥まみれになった長靴を横の滝で洗い、身支度をしてタクシーで帰った。セコいと言われそうだが、この後新潟で私用があったため、時間短縮と体力維持のためにタクシーを使わせていただいた。ご容赦願いたい。

 次回は事後調査編として隧道の成り立ちや住民からの情報などのレポートを掲載する予定だ。


次回 日本最長素掘り隧道 旭隧道 事後調査編 (未更新)


前回は鉄道遺構のレポートをしたが、今回は初めての道路レポートになる。

1本目のレポートにしていいのか躊躇うほどの大物を釣り上げてしまった気もするが、気にせず書いていこう。

今回紹介する隧道は 旭隧道 だ

大して有名でもないので私も前まで全く知らなかった。
旭隧道は新潟県三条市にある手掘りの隧道である。
旭隧道
旭隧道
中央に見える点線が旭隧道だ。
信越本線東光寺駅から徒歩で40分、タクシーなら10分ほどとアクセスのしやすい隧道だ。




まずは驚愕の旭隧道のスペックについて。
隧道マニアにはおなじみの全国トンネルリストによると、開通は昭和29年、全長は763m、幅員2.1m、有効高1.7m、壁面区分素掘り、現状は制限付自動車通行可ってる。また、隧道を抜けた先にある神社(後述)のHPによると掘削方法は手掘りだそうだ。聞いただけでもすごい

2017年8月現在、日本最長の手掘り隧道は同じく新潟県の長岡市山古志にある全長877mの「手掘り中山隧道」であるが、こちらは現在自動車通行不能なため自動車が通れる手掘り隧道では旭隧道が最長なのではないだろうか。だが、同リストによると中山隧道は内装が吹き付けとなっているため、掲載されているトンネルのうち、内装が素掘りの隧道では全国一位である。(調査漏れがああれば申し訳ない)
新潟の片田舎にある何の変哲もない隧道がまさか素掘り隧道日本一だとは探索前は一切知らなかった。

(手掘りと素掘りの違いについて)
手掘り隧道:機械を使わず手で扱う道具で堀った隧道
素掘り隧道:掘削後の地肌のままの状態の隧道


前置きが長くなったがこの隧道を探索することになった経緯も含めて書いていこうと思う。もともと私は鉄道撮影のために何度も新潟に足を運んでいたのだが、そのうち三条市に長大手掘り隧道があるという情報を得た。過去にナニコレ珍百景で紹介されたことがあるらしく(出典不明)検索するとすぐに旭隧道がヒットした。そして隧道認知から3か月経った8月に探索することとなった。
最寄りの東光寺駅からは徒歩40分もかかるのでタクシーを使うことにした。



東光寺駅
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タクシーに乗ったのは単に歩くのが面倒だからというだけではなく、隧道や地元の情報を仕入れたかったからだ。なにせ東光寺駅前には駐輪場以外本当に何もない。タクシーも常駐していないので事前に予約しておいた。ここらは東京と違って配車料金がからないからありがたい。早速乗り込んだタクシーで運転手に隧道について聞いてみたら、「隧道までは行ったことがないから詳しいことはわからないが隧道の先に人が一人住んでいる」とのことだった。隧道の先に世界一神社という不思議な名前の神社があり、そこの神主さんが隧道を使っているという話は事前に調べていたが、住んでいるという話は初めて聞いた。どちらにせよ定期的に利用している人はいるのだ。
10分もかからないうちに隧道手前にある「吉野屋」という牛丼屋みたいな集落にたどり着き、さらに道を進んでいくと旭隧道がぽっかりと口を開けているところに到着する。隧道前には車を回転させられるスペースもある。

隧道を背に広場を望む。来た道は右側に伸びている。

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運転手さんに「1時間後にまたここへ来てもらえますか」と聞いたところ、「奥まっていてここまでの道がわかるタクシーが捕まるかわからないからここで待っているよ」と言われたので待っていただくことにした。そのため重いリュックを放置してカメラだけ持って突撃できたので非常に感謝している。

いよいよ隧道内に進行していく。
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吉野屋側入り口は入ってすぐにカーブしているため真っ暗だ。
トンネルの上になぜか滝があり、横から水が流れている。かなり大きな音を立てて流れている。
過去には中越地震で崩落があったため通行止めになっていたこともあるようだが、今は解除されている。しばらく晴れた日が続いた後での探索だったがかなりの水量があり、雨の跡ならばさらに水量が増すのだろう。そんな日は隧道を通行することはできるのだろうか。

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あれ、素掘りではなかったのか。
ものすごい騙された気がしたがここまで来て帰るわけにもいかない。
入り口はコンクリート巻きになっていてすぐに右カーブだ。

隧道内は3~5センチほどの水位で水が流れている。防水の運動靴でも入れるがこの先でかなり汚れる上に日によって水位は違うので探索には長靴をお勧めする。

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しばらく行くとコンクリート吹付(またはモルタル)になる。
吹付部は補強のためにアンカーらしきものが打たれているがこれが不気味だ。
どうやらこのコンクリ巻きは開通後に作られたもののようだ。たびたび地震に見舞われているうえに、坑口の上に滝がある環境でもあることから補強をしたようだ。隧道リスト更新してくれ…。


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地震で崩落した箇所だろうか ビニールシートがかけられている。集落の最奥にあり利用者も少ないがちゃんと手入れがされているということがわかる。一見死んでいる道のようでも名前も知らない誰かが利用し、手入れもされている様子を見るとうれしくなる。実際は歩いても歩いても出口の光が近づかない恐怖で探索時はそんなことを微塵も考えていなかったことは秘密である。(私は結構怖がり)

しばらく進むとまた内装が変わる。
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昔はもっと素掘り区間が長かったようなのだが地震の影響で年々コンクリ補強されているようだ。
後日調べたところ、ここ数年でも補強工事が行われており、数億円もの税金が投入されているらしい。そんなに費用投入をするほど交通量があるようにも見えないし、代替路もあるはずなのだが、この隧道を使い続けたい理由が何かあるのだろうか。導入が長くなってしまったせいでまだ入ってきたばかりだが続きは次回。 上の画像からもわかるがいよいよ素掘り区間に突入するが比べ物にならない不気味さとなる。

次回 長大手掘り隧道の素掘り区間へ







編集後記
数ある記事の中からお読みいただきありがとうございます。このブログ2本目の記事のためまだまだ内容が拙く、読みづらい点が多くあったかと思います。是非とも至らなかった点をコメントで教えていただけると大変ありがたいです。改善提案や内容の間違い、誤字脱字等もご指摘をいただければと思っています。今回は二本目の記事のくせにわざわざ新潟のネタを持ってきましたが、ぼーっとしていたら記事投稿が探索から3か月もたってしまいました。隧道は新品よりも古いもののほうが味が出て感動できますが、記事も熟成させて見ごたえのあるものになったということで一つよろしくお願い致します(笑) 三篇構成にする予定ですので次回は中編となります。3か月後にならないよう気を付けますので、中編もご覧いただければ幸いです。

使用地図:
国土地理院 地理院地図

記念すべき一本目のレポートは旧線探索。


初回の今回は物井ー佐倉間の旧線を辿っていく。
今回の探索は友人より「ツイッターのTLに成田線の廃隧道の写真が流れてきていきたくなったから明日行こう」という唐突な計画が提示されたので「暇だから行くか」的なノリで行ったのだが、思いのほか収穫が多く満足した。だが正直梅雨の雨土砂降りの中行くのは間違っていた。晴れの日に行けばもっと楽しめただろう。彼から言われた「成田線の廃隧道」はまた後日記事にするのでまずは同日午前に行ったモノサク旧線のレポートをご覧いただこうと思う。探索日は6月25日。今回は自分を含め3人で探索を行っている。


モノサクといえば総武本線の超有名撮影地だが、あの区間は過去に付け替えが行われていることをご存知だろうか? 昭和43年(1963)の2月25日に総武本線の千葉ー佐倉間、成田線の佐倉ー成田間がそれぞれ複線電化されたことを機に、現在の路線に切り替えられた。途中にあるレンガ積みの亀崎橋台は四街道市の史跡にも登録されていていくつかのブログでも紹介されているほど有名である。すでに全線レポートはネット上に上がっているが大規模に変わってしまったところもあるので追々紹介する。

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赤線区間が今回の探索する旧線。 大地を貫く寺崎トンネルの開通で線路が付け替えられた。
大部分は路盤がそのまま残されていて徒歩で探索することができる。 自転車でもできるがここは徒歩をお勧めする。


物井地図6
記事ではこの地図上に書かれた地点を基準に場所を記載する。


まずA地点
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現行線路のカーブが始まるところから低めの築堤による路盤が確認できる。
現行線路に近いところはバラストもそのまま残っている。

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北側(佐倉方)の様子。 路盤はしっかり残っている。ここから佐倉駅まで現行線路とはしばしお別れ。

このまま歩いていくと用水路をまたぐ小さな橋が出てくる。 B地点
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どうやら水は流れいていないようだ。すでに暗渠になっているのだろうか。
銘板は取り外されていて名前などはわからなかった。橋脚が残っているだけでも奇跡といえるが、なぜ撤去されなかったのだろうか。

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レンガ造りで、積み方はオランダ積。橋げたも残っていてかなりいい状態だ。

このまま進むと農道が路盤に登ってきて線路跡は現道へと姿を変えた。線路として使われなくなった後も農家の交通路として活用されいるのは捨てられてしまうよりよっぽどいい。

さらに進んでC地点
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農道に転用された区間も終わり舗装路にぶつかる直前の用水路を渡るところになんと枕木が。
分岐地点からここまで痕跡はしっかり見てきたのでおそらく初めて現れた枕木である。この区間を探索されてもっと手前で枕木を見つけた方がいらしたらぜひコメント欄で教えていただきたい。
この枕木はおそらく現役時代のものだと思うが何故ここだけ残ったのかはまったくもって不思議である、 興奮冷めやらぬうちに友人から報告が。

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見えづらくて申し訳ないがこの用水路をまたぐところもレンガ積みでできていた。気づかず素通りしてしまいそうなほど小さく橋桁もないのだが細かいところまでしっかりと作られている、これは総武本線の前身である総武鉄道の仕事だからこそではないだろうか。

総武本線は明治20年(1887)に佐原の伊能と、成東の安井がそれぞれ東京から船橋、千葉を通り佐原、または八街へ至る鉄道路線免許を申請したのだか、当時は船舶輸送が主流で千葉県知事から認可が下りなかった。そこで彼らは会社を合併させ明治22年(1889)に「総武鉄道」を設立させた。おそらくこれが初めて「総武」という言葉が世に放たれたときであろう。(明治20年に免許を申請した佐原の会社は武総鉄道)
陸軍施設近くを通るルートを作り陸軍の支持の上、認可を得ることに成功した。
それから5年。明治27年(1994)に市川ー佐倉間の開通を機に線路は西は両国、東は銚子まで延び、今に至る。
このように総武本線は地元の人々の鉄道への強い思いによって開通した歴史がある。
本当に小さな用水路一つにもレンガ積みの橋を架けることには、このような鉄道へのあこがれや思いが
あったのではないだろうか。

さて、話がそれすぎた。
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再びC地点である。 舗装路と交差した後は斜面の横をひたすらまっすぐ走り続ける。

だが進んでいくと何やら雲行きが怪しい。民家の前に出てしまった。どうやらこの区間は民家へのアクセス道路になっているようだ。路盤は続いているのだがまた障害があらわれた。
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路盤上にガレージが作られていた。写真右写っている車の後ろにガレージがある。
さすがに突っ切ることはできないので一度市道を通ってからガレージの裏まで行き、再び旧線跡を歩く。

ガレージより先はまったく使われていないようだ。
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左側にはコンクリート擁壁があるがこれは開業時のものではないだろう。

少し歩くと急に開けた。D地点
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今までで一番立派な築堤である。


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築堤はバラストや枕木を敷くために中央部がへこんでいるが、ここの築堤はそのへこみまできれいに残っている。
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当時はここをSLが爆走していたのだろう。一度見てみたかったものだ。

しばらく行くと築堤は急に無くなる。
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降りると…
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史跡にも登録されている亀崎橋台である E地点


奥に列車が走っている現行線路とはこれくらい離れている。
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橋台脇に設置されている案内によると桜の刻印が施されたレンガが存在するようなのだが、我々では見つけることができなかった。市が資料として保管しているのか探し方が悪かったか… いずれにしても詳細をご存知の方がいらしたらぜひご教授願いたい。

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案内板にあった写真。 手前のコンクリ製橋脚はというと…

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無残に撤去されています。 ここからF地点までは線路跡こそあるものめぼしい痕跡は見つからず。

F地点
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鹿島川の反対側。橋脚等の痕跡は見当たらず。
奥にあるのが川の堤防、右のこんもりしたところが旧線の築堤。

G地点
寺崎1
写真を撮り忘れてしまったのでグーグルマップから拝借。
F地点側から佐倉方の旧線跡を見た様子。用水路を渡り民家の敷地を通っていた。
ここから先は市街化されていて正確には辿ることはできない。
痕跡も特にないのでH地点へ。

H地点
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民家の裏に築堤がある。ここが旧線跡とみられる。

I地点
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県道から見えるところに用水路をまたぐ橋があらわれた。ここはどうやらレンガ積みではないようだ。コンクリで覆われた様子もない。

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佐倉側から物井方を見た様子。 路盤は残っているがさすがに藪が深すぎて中に入る気はしなかった(隧道探索でそんなことは微塵も思わなくなるのだが…)

そしてI地点近くで旧線跡はカーブし、今は県道となった道とともに佐倉駅へと向かっていく… はずなのだが…
どうやらここにきて面倒なことが起きた。
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事前に用意していた地理院地図に書かれている県道136号がなくなっているのだ。
ここが旧線跡なのだが… 地理院地図が更新されていなかったようだ。

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なんか…新興住宅街になっている…

地理院地図が更新されていないことなど大したことではないのだが、県道をつぶして住宅地を作ったなんて聞いたこともない。 しかもその県道を跡形もなく消し去るなんてありえていいのか… どうやら区画整理事業の一環で斜めに走る県道が邪魔で大した需要もなかったから消したようだ。 

幸いにもグーグルマップに過去の画像が残っていた。
佐倉3
上の写真とほぼ同じ位置から北側を見た写真。 あまり変化はない。

東側(佐倉方)
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相当道が変わっている。変わっているというより完全に県道は廃道と化して、新たに市道を作ったわけだから、まったく別の道なのだが。この写真は2012年に撮影されているからそれまでは県道は減益だったのだろう。

佐倉5
北側を見た様子。すでに廃道化工事が始まっていて若干線形に変更がある。本来の旧線跡、県道は重機がいるところをまっすぐ通る経路だ。

佐倉6
左に写るヒューム管は旧線の残骸だったりするのだろうかと考えてしまうがおそらく考えすぎだろう。

区画整理された住宅街を抜け、少しだけ残る県道区間にやってきた。
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法務局前から佐倉方を望む。

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ふと法務局の敷地に目をやると、こんな古レールがぽつりと置いてあった。コンクリの土台まで作られている。縁もゆかりもない古レールを持ってくることは考えにくい。もしかすると旧線の撤去時に記念に引き取ったレールかもしれない。探索日が日曜日だったため直接法務局に質問することができなかったので今後の調査課題とする。

さて、今回の探索も間もなく終わり。
J地点に到着だ。

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このまま現行線路と合流して佐倉駅へ向かい旧線区間は終了する。

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 合流地点の側溝に一か所だけ斜めになっている所を見つけた。排水管とつながっている所から見るに、旧線を撤去し側溝を作り替える際に、排水管まで敷設しなおすことを嫌った国鉄がここだ作り替えず残したものではないだろうか。地震等でずれたようには見えなかった。

さて、これで物井駅から佐倉駅まで、トータル移動距離約6キロの総武本線の旧線探索が終了した。


桜の刻印付きレンガや、法務局においてあるレールなど、今後調査すべきことも数多く残っているがそれは相当後になると思うが、机上調査したうえで記事化したいと思う。

内容について、気になった点やご指摘があればぜひ教えていただきたい。


長い記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。


引用:

使用地図:
国土地理院 地理院地図

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