カテゴリ: レポート

「京葉道路」と聞くとどこをイメージするだろうか。
 千葉県民は東京に行くときに使う高速道路、首都圏やさらに遠方の方は房総へ行くために使う高速道路だというイメージなのではないだろうか。
 だが、東京都民は一般国道の道路名のイメージが強い。東京から千葉にタクシーで帰るときに高速に乗ってもらうつもりで「京葉道路で」と言ったらずっと下道で行かれたなんて逸話があったりする。
1本の道が地域によって違う名前で呼ばれることは多くあるが、別の道が1つの名前で呼ばれることはなかなかない。

今回はそんな2つの京葉道路についての話を2回に分けてご紹介する。予定でしたがこの記事で完結となる。
第1回 京葉道路の歴史
第2回 現在の京葉道路
                                              

都民以外が多くイメージする高速道路の京葉道路は東京都江戸川区の一ノ江ランプと篠崎ランプの中間地点で、首都高速7号小松川線と接続し、市川市・船橋市を通り、千葉市中央区の蘇我ICで館山自動車道と接続する自動車専用道路である。厳密には「高速道路(高速自動車国道)」ではなく「自動車専用道路(一般国道自動車専用道路)」なので最高速度は60キロ(2019年より一部区間80キロ)だ。地図上では青線で表記している。
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赤線は国道14号線。東京都墨田区両国から千葉市中央区までを結ぶ主要国道だ。
都民はこの国道14号の都内のうち篠崎から両国までをも京葉道路と呼ぶ。
一般国道と自動車専用道路、この2つが同じ名前で呼ばれることには深い理由がある。


国道14号線の歴史は古く、江戸以前からある房総往還に起源を持つ。船橋や千葉にかけての道は戦前は海岸線を走っていたが現在は埋め立てられ、海からは遠くなってしまった。千葉市から都内の途中までは現在千葉街道と呼ばれている。
時は進み、戦後経済成長での京葉工業地域造成や総武線沿線の人口増加、モータリゼーションが進むにつれ、東京ー千葉間の交通が従来の一般国道だけでは捌ききれなくなった。そこで一ノ江橋から船橋IC間に自動車専用道路を作る計画が持ち上がった。当時はまだ高速道路や自動車専用道路は存在せず、1960年の開通時は国道14号のバイパスとしての位置付けで、自動車専用道ではなく、料金所は鬼高(市川)のみ、さらには一般道と平面交差していた。開通から1年後、京葉道路は日本初の自動車専用道となった。1963年に開通した名神高速道路が日本初の高速道路なのは有名だが、その2年前の1961年に京葉道路が日本初の自動車専用道路となったのはあまり有名ではない。バイパスであると述べた通り、この京葉道路は東北道や東名高速などと違い、あくまで国道14号線である。(千葉方の一部は国道16号扱い)


ここからは京葉道路開通の歴史を航空写真とともに見ていく。

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この写真は国道14号一之江橋付近の1948年の航空写真と、現在の地図である。
一之江橋は新中川を渡るのだが、新中川は当時開削されておらず一之江より先の国道14号もできていない。一方地図内の東小松川の交差点から北に向かっている国道も14号である。東小松川から国号14号は二手に別れ、一方は小岩付近を通り市川に抜ける。こちらは千葉街道と呼ばれ古くからある道で、本来の国道14号、つまり房総往還と呼ばれていた時代からの道は荒川の掘削などでルートの変遷はあるものの、概ねこの北へ向かう道が原型である。


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これは1957年に撮影された一之江付近の航空写真だ。新中川の開削も進み、川の手前まで国道14号が延伸しているのがわかる。この3年後の1960年にこの新中川に架かる一ノ江橋から船橋ICまで「京葉道路」として開通した。(重要なので覚えておいていただきたい)前述したように開通直後は自動車専用道ではなく、有料バイパスの位置付けであり、料金所も鬼高のみで平面交差も40箇所ほどあった。少し前まではよくあったタイプの道だが、ほとんどの道路は建設費の回収が終わり無料化されている。要するに京葉道路は建設費の回収が終わっておらず今だに有料道路なのだ。
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開通直後の京葉道路市川付近の航空写真 写真右の道幅の広い部分が鬼高料金所(現京葉市川PA)
鬼高料金所の右側に平面交差が確認できる。

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 さて、開通から一年後に京葉道路は自動車専用道路となったのだが、道路構造に変化はなかった。
その後千葉市方面へ路線が伸びるのだが、この頃には名神高速道路が開通し、高速道路の規格がある程度決まってきたため、京葉道路もその例に倣い平面交差が存在しないように建設が続けられ、1966年には幕張ICまで開通した。
 その頃、今度は飛行機需要の増加による羽田空港の拡張が検討されたが、それでも需要に対応しきれないことから、成田に新空港を建設することが決定された。そして東京と成田空港間の連絡道路として、東京側は首都高速7号小松川線、空港側は新空港自動車道(現東関東自動車道)の建設が計画され、それらを結ぶ道路として京葉道路が活用されることになった。
しかし、京葉道路の初期開通区間は平面交差だらけで空港アクセス道としては使えない単なるバイパスであったため、改良工事が行われ、首都高速7号小松川線と谷河内(篠崎付近)で接続が行われた。小松川線の開通と同時に篠崎ー市川、半年後に船橋までの6車線化が行われ、平面交差も解消され、現在のような道路状況となった。

ここまでが大まかな京葉道路の歴史なのだが、1つ不思議なことが起きていることにお気づきだろうか。
京葉道路の開通起点と首都高速との接続地点が違うのだ。

一之江から開通していた京葉道路と首都高は篠崎で合流しているのだが、この間にジャンクションは存在しない。では、一之江から篠崎まではどうなってしまったのだろうか。

自動車専用道指定解除


日本初の自動車専用道路に指定された京葉道路はわずか10年で一部区間が指定解除となってしまった。
おそらく日本で初めて自動車専用道路に指定され、日本で初めて自動車専用道路を解除されて路線であろう。自動車専用道が解除された区間にも注目すべきものが色々とあるのでこの区間の実踏調査は第2回の記事でまとめる。

さて、東京都は一之江橋から船橋まで京葉道路が開通したのち、一ノ江橋から両国までの国道14号の通称名を京葉道路とした。開通時は首都高速7号は建設されていないので、船橋から京葉道路に乗り、道なりに進めば両国まで行けるので道路の通称名としては適切なはずだった。しかしながら先述のように首都高と接続し、千葉県内の京葉道路は千葉市内へ伸び、成田新空港とも新空港道経由で接続されるなど京葉道路のイメージがバイパスから高速道路に変わってしまった。しかし、一度設定した道路名称を変更することもなく、京葉道路は都内の街道名称と、東京都千葉を結ぶ高速道路名という2つのイメージを持つ道となった。

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京葉道路開通から現在までの変遷

このように京葉道路は時代や情勢の変化によって道のあり方がめまぐるしく変わってきた歴史を持つ興味深い道路なのだ。次回は自動車専用道路の指定が解除された区間の実踏調査編を掲載する予定だがいつになることやら…。
ご覧いただきありがとうございました。



参考文献:
朝日新聞 1961年8月15日夕刊 「京葉道路 今日から自動車専用に」
公益社団法人 日本道路協会 月刊誌 「道路」 各巻

使用地図:
国土地理院 地理院地図


 

ーおせんころがしー
千葉県勝浦市にある名勝地だ。名前をご存知の方も多いと思う。おせんころがしの歴史はいつなのかはっきりしないほど古いが、名前の由来にもなった有名な話がある。

「昔この地域を支配していた豪族にお仙という娘がいた。お仙は優しい娘で、日頃から年貢に苦しむ領民に心を痛め、強欲な父親を説得しようとしていたが聞き入れてもらえなかった。そんな中領民たちは苦しみに耐えきれずお仙の父親の殺害を計画した。それを知ったお仙は父のふりをして領民たちに自分を崖から突き落とさせた。翌朝になってから突き落としたのがお仙だと知った領民たちは自分達の行いに悲嘆にくれ地蔵尊を建て供養したと言われている。さすがの父親もこれを機に心を入れ替えた。」

というものである。このように土地としての歴史は古いが街道としての歴史は浅く、明治時代である。江戸時代、内房は参覲交代でも使われる房総往還によりそれぞれの集落は1本の道で繋がっていたが、外房の集落はそれぞれ千葉と繋がる街道はあったものの、相互で繋ぐ環状線のような道は小道程度で貧弱であった。明治になり外房の各集落を繋ぐ道として現在の国道128号の前身となる道が完成した。おせんころがしはその頃から街道としての役割を担うようになった。しかし断崖絶壁に作られた道は災害にも弱く、大変危険な為、代替路が昭和20年代には完成し、おせんころがしは旧道となった。

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その後、昭和27年にはおせんころがし殺人事件という残虐な一家殺人の舞台にもなった。この事件の詳細についてここには記述しないが、気になる方は調べてみていただきたい。
その後も転落事故や投身自殺が多かったようだ。こんな悲しい話が多い道はなかなかないのではないか。そのせいか現道のおせんころがしトンネルは心霊スポット扱いされている。
実は昨年もおせんころがしを訪れているのだがSL勝浦撮影のついでできていたので探索はしていなかった。

前置きが長くなったが、探索は最寄駅の行川アイランド駅から行った。
おせんころがし付近は道が3本ありそれぞれ現国道の旧道、旧旧道(おせんころがし)となっているが、旧旧道は前回探索済み(未執筆)なので今回は現国道を通り南側からおせんころがしを攻略しようと思う。

大沢バス停から階段を下ると大沢集落に向かう道に出る。橋の真下に道がある。さらに下に行くと橋の下に漁港に向かうトンネルがある珍しい光景が見られるが漁港は立ち入り禁止の為割愛。 階段横の小道を入るとおせんころがしだ。

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入口から足場が危うい。
誰かここに住んでいるのだろうか。慎重に進んだが誰もいなかった。この辺りはまだ人の出入りがあるため踏み跡が残っているが、物が置かれている場所を過ぎると藪が始まる

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崩落してきたのだろうか。小石が散乱していて滑りやすい。藪をつかみながら慎重に進むとコンクリートで固められた路盤にたどり着く。

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当たり前だが柵もなく、足を滑らせたら即死だろう。幸いにもコンクリは綺麗に巻かれているので足元は安定している。
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それにしても崖の上から下まで全てコンクリート固めになっている景色は異様だ。しかしこの無機質な空間にもしっかりと道は残っている。遊歩道にしたら人気が出そうなくらい美しい眺めだ。この超自然な海と超人為な擁壁の対比がなんとも言えない雰囲気を醸し出し興奮させる。

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振り返ると鴨川まで続く断崖絶壁とそこを這うように通る道が見える。よくここに道を通したと本当に感心する。
かなり海側に立っていて下を見るととても怖いのだがあまりに景色がよく近づいてしまった。

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道幅は1.5車線ほどで歩いている分には落ちる恐怖などは感じないがそれは風が弱く天候が良いからだろう。
ひたすら上り坂だが明治にはここを馬車が通っていたそうだ。対向からも来たらどう避けたのだろう。

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海をみながら飲み物を飲んだりのんびりしながら進んでいくと再び藪がやってきた。どうやら崩落しているようだ。崩落時期はかなり前で笹やススキといった植物が密集している。

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コンクリ擁壁はここまでなのですべりおちたら止まることなく漁港へまっしぐらだ。なるべく高巻きして藪をつかみながら進んでいく。激藪すぎてむしろ落ちないのではと思うくらい茂っていた。


しばらくするとコンクリで固められていない路盤が現れた。これが本来のおせんころがしの路盤だ。木が生えているものの路盤自体は大変しっかり残っている。道はこの先、お仙を供養するための地蔵尊がある広場に出る。
その手前に藪に埋もれた古レールを使用した柵があった。

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そうして最後の藪を抜けると地蔵尊がある広場にたどり着く。ここは一応名勝地扱いだが看板と石塔があるだけで勝浦市がこの地を観光地化する気がないことがわかる。
石塔の裏に登ることができ、大半の観光客はここに登って「きゃー怖い」といって帰っていく。勝浦市はもう少しここを観光地化することを考えても良いのではと思ってしまう。

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無事に探索を終えることができたので感謝と追悼の気持ちを込めてお仙を供養する石塔にお参りしてから帰った。

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昔の旅人たちはここをどんな気持ちで通ってきたのだろうか。景色こそ美しいが、地名に残すほど彼らはこの場所を恐れていたのではないだろうか。

おせんころがしは大半の情報がわかっていることから今回机上調査は実施しない。最後までご覧いただきありがとうございました。

前回は鉄道遺構のレポートをしたが、今回は初めての道路レポートになる。

1本目のレポートにしていいのか躊躇うほどの大物を釣り上げてしまった気もするが、気にせず書いていこう。

今回紹介する隧道は 旭隧道 だ

大して有名でもないので私も前まで全く知らなかった。
旭隧道は新潟県三条市にある手掘りの隧道である。
旭隧道
旭隧道
中央に見える点線が旭隧道だ。
信越本線東光寺駅から徒歩で40分、タクシーなら10分ほどとアクセスのしやすい隧道だ。




まずは驚愕の旭隧道のスペックについて。
隧道マニアにはおなじみの全国トンネルリストによると、開通は昭和29年、全長は763m、幅員2.1m、有効高1.7m、壁面区分素掘り、現状は制限付自動車通行可ってる。また、隧道を抜けた先にある神社(後述)のHPによると掘削方法は手掘りだそうだ。聞いただけでもすごい

2017年8月現在、日本最長の手掘り隧道は同じく新潟県の長岡市山古志にある全長877mの「手掘り中山隧道」であるが、こちらは現在自動車通行不能なため自動車が通れる手掘り隧道では旭隧道が最長なのではないだろうか。だが、同リストによると中山隧道は内装が吹き付けとなっているため、掲載されているトンネルのうち、内装が素掘りの隧道では全国一位である。(調査漏れがああれば申し訳ない)
新潟の片田舎にある何の変哲もない隧道がまさか素掘り隧道日本一だとは探索前は一切知らなかった。

(手掘りと素掘りの違いについて)
手掘り隧道:機械を使わず手で扱う道具で堀った隧道
素掘り隧道:掘削後の地肌のままの状態の隧道


前置きが長くなったがこの隧道を探索することになった経緯も含めて書いていこうと思う。もともと私は鉄道撮影のために何度も新潟に足を運んでいたのだが、そのうち三条市に長大手掘り隧道があるという情報を得た。過去にナニコレ珍百景で紹介されたことがあるらしく(出典不明)検索するとすぐに旭隧道がヒットした。そして隧道認知から3か月経った8月に探索することとなった。
最寄りの東光寺駅からは徒歩40分もかかるのでタクシーを使うことにした。



東光寺駅
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タクシーに乗ったのは単に歩くのが面倒だからというだけではなく、隧道や地元の情報を仕入れたかったからだ。なにせ東光寺駅前には駐輪場以外本当に何もない。タクシーも常駐していないので事前に予約しておいた。ここらは東京と違って配車料金がからないからありがたい。早速乗り込んだタクシーで運転手に隧道について聞いてみたら、「隧道までは行ったことがないから詳しいことはわからないが隧道の先に人が一人住んでいる」とのことだった。隧道の先に世界一神社という不思議な名前の神社があり、そこの神主さんが隧道を使っているという話は事前に調べていたが、住んでいるという話は初めて聞いた。どちらにせよ定期的に利用している人はいるのだ。
10分もかからないうちに隧道手前にある「吉野屋」という牛丼屋みたいな集落にたどり着き、さらに道を進んでいくと旭隧道がぽっかりと口を開けているところに到着する。隧道前には車を回転させられるスペースもある。

隧道を背に広場を望む。来た道は右側に伸びている。

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運転手さんに「1時間後にまたここへ来てもらえますか」と聞いたところ、「奥まっていてここまでの道がわかるタクシーが捕まるかわからないからここで待っているよ」と言われたので待っていただくことにした。そのため重いリュックを放置してカメラだけ持って突撃できたので非常に感謝している。

いよいよ隧道内に進行していく。
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吉野屋側入り口は入ってすぐにカーブしているため真っ暗だ。
トンネルの上になぜか滝があり、横から水が流れている。かなり大きな音を立てて流れている。
過去には中越地震で崩落があったため通行止めになっていたこともあるようだが、今は解除されている。しばらく晴れた日が続いた後での探索だったがかなりの水量があり、雨の跡ならばさらに水量が増すのだろう。そんな日は隧道を通行することはできるのだろうか。

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あれ、素掘りではなかったのか。
ものすごい騙された気がしたがここまで来て帰るわけにもいかない。
入り口はコンクリート巻きになっていてすぐに右カーブだ。

隧道内は3~5センチほどの水位で水が流れている。防水の運動靴でも入れるがこの先でかなり汚れる上に日によって水位は違うので探索には長靴をお勧めする。

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しばらく行くとコンクリート吹付(またはモルタル)になる。
吹付部は補強のためにアンカーらしきものが打たれているがこれが不気味だ。
どうやらこのコンクリ巻きは開通後に作られたもののようだ。たびたび地震に見舞われているうえに、坑口の上に滝がある環境でもあることから補強をしたようだ。隧道リスト更新してくれ…。


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地震で崩落した箇所だろうか ビニールシートがかけられている。集落の最奥にあり利用者も少ないがちゃんと手入れがされているということがわかる。一見死んでいる道のようでも名前も知らない誰かが利用し、手入れもされている様子を見るとうれしくなる。実際は歩いても歩いても出口の光が近づかない恐怖で探索時はそんなことを微塵も考えていなかったことは秘密である。(私は結構怖がり)

しばらく進むとまた内装が変わる。
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昔はもっと素掘り区間が長かったようなのだが地震の影響で年々コンクリ補強されているようだ。
後日調べたところ、ここ数年でも補強工事が行われており、数億円もの税金が投入されているらしい。そんなに費用投入をするほど交通量があるようにも見えないし、代替路もあるはずなのだが、この隧道を使い続けたい理由が何かあるのだろうか。導入が長くなってしまったせいでまだ入ってきたばかりだが続きは次回。 上の画像からもわかるがいよいよ素掘り区間に突入するが比べ物にならない不気味さとなる。

次回 長大手掘り隧道の素掘り区間へ







編集後記
数ある記事の中からお読みいただきありがとうございます。このブログ2本目の記事のためまだまだ内容が拙く、読みづらい点が多くあったかと思います。是非とも至らなかった点をコメントで教えていただけると大変ありがたいです。改善提案や内容の間違い、誤字脱字等もご指摘をいただければと思っています。今回は二本目の記事のくせにわざわざ新潟のネタを持ってきましたが、ぼーっとしていたら記事投稿が探索から3か月もたってしまいました。隧道は新品よりも古いもののほうが味が出て感動できますが、記事も熟成させて見ごたえのあるものになったということで一つよろしくお願い致します(笑) 三篇構成にする予定ですので次回は中編となります。3か月後にならないよう気を付けますので、中編もご覧いただければ幸いです。

記念すべき一本目のレポートは旧線探索。


初回の今回は物井ー佐倉間の旧線を辿っていく。
今回の探索は友人より「ツイッターのTLに成田線の廃隧道の写真が流れてきていきたくなったから明日行こう」という唐突な計画が提示されたので「暇だから行くか」的なノリで行ったのだが、思いのほか収穫が多く満足した。だが正直梅雨の雨土砂降りの中行くのは間違っていた。晴れの日に行けばもっと楽しめただろう。彼から言われた「成田線の廃隧道」はまた後日記事にするのでまずは同日午前に行ったモノサク旧線のレポートをご覧いただこうと思う。探索日は6月25日。今回は自分を含め3人で探索を行っている。


モノサクといえば総武本線の超有名撮影地だが、あの区間は過去に付け替えが行われていることをご存知だろうか? 昭和43年(1963)の2月25日に総武本線の千葉ー佐倉間、成田線の佐倉ー成田間がそれぞれ複線電化されたことを機に、現在の路線に切り替えられた。途中にあるレンガ積みの亀崎橋台は四街道市の史跡にも登録されていていくつかのブログでも紹介されているほど有名である。すでに全線レポートはネット上に上がっているが大規模に変わってしまったところもあるので追々紹介する。

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赤線区間が今回の探索する旧線。 大地を貫く寺崎トンネルの開通で線路が付け替えられた。
大部分は路盤がそのまま残されていて徒歩で探索することができる。 自転車でもできるがここは徒歩をお勧めする。


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記事ではこの地図上に書かれた地点を基準に場所を記載する。


まずA地点
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現行線路のカーブが始まるところから低めの築堤による路盤が確認できる。
現行線路に近いところはバラストもそのまま残っている。

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北側(佐倉方)の様子。 路盤はしっかり残っている。ここから佐倉駅まで現行線路とはしばしお別れ。

このまま歩いていくと用水路をまたぐ小さな橋が出てくる。 B地点
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どうやら水は流れいていないようだ。すでに暗渠になっているのだろうか。
銘板は取り外されていて名前などはわからなかった。橋脚が残っているだけでも奇跡といえるが、なぜ撤去されなかったのだろうか。

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レンガ造りで、積み方はオランダ積。橋げたも残っていてかなりいい状態だ。

このまま進むと農道が路盤に登ってきて線路跡は現道へと姿を変えた。線路として使われなくなった後も農家の交通路として活用されいるのは捨てられてしまうよりよっぽどいい。

さらに進んでC地点
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農道に転用された区間も終わり舗装路にぶつかる直前の用水路を渡るところになんと枕木が。
分岐地点からここまで痕跡はしっかり見てきたのでおそらく初めて現れた枕木である。この区間を探索されてもっと手前で枕木を見つけた方がいらしたらぜひコメント欄で教えていただきたい。
この枕木はおそらく現役時代のものだと思うが何故ここだけ残ったのかはまったくもって不思議である、 興奮冷めやらぬうちに友人から報告が。

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見えづらくて申し訳ないがこの用水路をまたぐところもレンガ積みでできていた。気づかず素通りしてしまいそうなほど小さく橋桁もないのだが細かいところまでしっかりと作られている、これは総武本線の前身である総武鉄道の仕事だからこそではないだろうか。

総武本線は明治20年(1887)に佐原の伊能と、成東の安井がそれぞれ東京から船橋、千葉を通り佐原、または八街へ至る鉄道路線免許を申請したのだか、当時は船舶輸送が主流で千葉県知事から認可が下りなかった。そこで彼らは会社を合併させ明治22年(1889)に「総武鉄道」を設立させた。おそらくこれが初めて「総武」という言葉が世に放たれたときであろう。(明治20年に免許を申請した佐原の会社は武総鉄道)
陸軍施設近くを通るルートを作り陸軍の支持の上、認可を得ることに成功した。
それから5年。明治27年(1994)に市川ー佐倉間の開通を機に線路は西は両国、東は銚子まで延び、今に至る。
このように総武本線は地元の人々の鉄道への強い思いによって開通した歴史がある。
本当に小さな用水路一つにもレンガ積みの橋を架けることには、このような鉄道へのあこがれや思いが
あったのではないだろうか。

さて、話がそれすぎた。
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再びC地点である。 舗装路と交差した後は斜面の横をひたすらまっすぐ走り続ける。

だが進んでいくと何やら雲行きが怪しい。民家の前に出てしまった。どうやらこの区間は民家へのアクセス道路になっているようだ。路盤は続いているのだがまた障害があらわれた。
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路盤上にガレージが作られていた。写真右写っている車の後ろにガレージがある。
さすがに突っ切ることはできないので一度市道を通ってからガレージの裏まで行き、再び旧線跡を歩く。

ガレージより先はまったく使われていないようだ。
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左側にはコンクリート擁壁があるがこれは開業時のものではないだろう。

少し歩くと急に開けた。D地点
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今までで一番立派な築堤である。


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築堤はバラストや枕木を敷くために中央部がへこんでいるが、ここの築堤はそのへこみまできれいに残っている。
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当時はここをSLが爆走していたのだろう。一度見てみたかったものだ。

しばらく行くと築堤は急に無くなる。
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降りると…
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史跡にも登録されている亀崎橋台である E地点


奥に列車が走っている現行線路とはこれくらい離れている。
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橋台脇に設置されている案内によると桜の刻印が施されたレンガが存在するようなのだが、我々では見つけることができなかった。市が資料として保管しているのか探し方が悪かったか… いずれにしても詳細をご存知の方がいらしたらぜひご教授願いたい。

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案内板にあった写真。 手前のコンクリ製橋脚はというと…

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無残に撤去されています。 ここからF地点までは線路跡こそあるものめぼしい痕跡は見つからず。

F地点
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鹿島川の反対側。橋脚等の痕跡は見当たらず。
奥にあるのが川の堤防、右のこんもりしたところが旧線の築堤。

G地点
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写真を撮り忘れてしまったのでグーグルマップから拝借。
F地点側から佐倉方の旧線跡を見た様子。用水路を渡り民家の敷地を通っていた。
ここから先は市街化されていて正確には辿ることはできない。
痕跡も特にないのでH地点へ。

H地点
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民家の裏に築堤がある。ここが旧線跡とみられる。

I地点
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県道から見えるところに用水路をまたぐ橋があらわれた。ここはどうやらレンガ積みではないようだ。コンクリで覆われた様子もない。

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佐倉側から物井方を見た様子。 路盤は残っているがさすがに藪が深すぎて中に入る気はしなかった(隧道探索でそんなことは微塵も思わなくなるのだが…)

そしてI地点近くで旧線跡はカーブし、今は県道となった道とともに佐倉駅へと向かっていく… はずなのだが…
どうやらここにきて面倒なことが起きた。
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事前に用意していた地理院地図に書かれている県道136号がなくなっているのだ。
ここが旧線跡なのだが… 地理院地図が更新されていなかったようだ。

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なんか…新興住宅街になっている…

地理院地図が更新されていないことなど大したことではないのだが、県道をつぶして住宅地を作ったなんて聞いたこともない。 しかもその県道を跡形もなく消し去るなんてありえていいのか… どうやら区画整理事業の一環で斜めに走る県道が邪魔で大した需要もなかったから消したようだ。 

幸いにもグーグルマップに過去の画像が残っていた。
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上の写真とほぼ同じ位置から北側を見た写真。 あまり変化はない。

東側(佐倉方)
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相当道が変わっている。変わっているというより完全に県道は廃道と化して、新たに市道を作ったわけだから、まったく別の道なのだが。この写真は2012年に撮影されているからそれまでは県道は減益だったのだろう。

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北側を見た様子。すでに廃道化工事が始まっていて若干線形に変更がある。本来の旧線跡、県道は重機がいるところをまっすぐ通る経路だ。

佐倉6
左に写るヒューム管は旧線の残骸だったりするのだろうかと考えてしまうがおそらく考えすぎだろう。

区画整理された住宅街を抜け、少しだけ残る県道区間にやってきた。
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法務局前から佐倉方を望む。

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ふと法務局の敷地に目をやると、こんな古レールがぽつりと置いてあった。コンクリの土台まで作られている。縁もゆかりもない古レールを持ってくることは考えにくい。もしかすると旧線の撤去時に記念に引き取ったレールかもしれない。探索日が日曜日だったため直接法務局に質問することができなかったので今後の調査課題とする。

さて、今回の探索も間もなく終わり。
J地点に到着だ。

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このまま現行線路と合流して佐倉駅へ向かい旧線区間は終了する。

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 合流地点の側溝に一か所だけ斜めになっている所を見つけた。排水管とつながっている所から見るに、旧線を撤去し側溝を作り替える際に、排水管まで敷設しなおすことを嫌った国鉄がここだ作り替えず残したものではないだろうか。地震等でずれたようには見えなかった。

さて、これで物井駅から佐倉駅まで、トータル移動距離約6キロの総武本線の旧線探索が終了した。


桜の刻印付きレンガや、法務局においてあるレールなど、今後調査すべきことも数多く残っているがそれは相当後になると思うが、机上調査したうえで記事化したいと思う。

内容について、気になった点やご指摘があればぜひ教えていただきたい。


長い記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。

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