記念すべき一本目のレポートは旧線探索。


初回の今回は物井ー佐倉間の旧線を辿っていく。
今回の探索は友人より「ツイッターのTLに成田線の廃隧道の写真が流れてきていきたくなったから明日行こう」という唐突な計画が提示されたので「暇だから行くか」的なノリで行ったのだが、思いのほか収穫が多く満足した。だが正直梅雨の雨土砂降りの中行くのは間違っていた。晴れの日に行けばもっと楽しめただろう。彼から言われた「成田線の廃隧道」はまた後日記事にするのでまずは同日午前に行ったモノサク旧線のレポートをご覧いただこうと思う。探索日は6月25日。今回は自分を含め3人で探索を行っている。


モノサクといえば総武本線の超有名撮影地だが、あの区間は過去に付け替えが行われていることをご存知だろうか? 昭和43年(1963)の2月25日に総武本線の千葉ー佐倉間、成田線の佐倉ー成田間がそれぞれ複線電化されたことを機に、現在の路線に切り替えられた。途中にあるレンガ積みの亀崎橋台は四街道市の史跡にも登録されていていくつかのブログでも紹介されているほど有名である。すでに全線レポートはネット上に上がっているが大規模に変わってしまったところもあるので追々紹介する。

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赤線区間が今回の探索する旧線。 大地を貫く寺崎トンネルの開通で線路が付け替えられた。
大部分は路盤がそのまま残されていて徒歩で探索することができる。 自転車でもできるがここは徒歩をお勧めする。


物井地図6
記事ではこの地図上に書かれた地点を基準に場所を記載する。


まずA地点
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現行線路のカーブが始まるところから低めの築堤による路盤が確認できる。
現行線路に近いところはバラストもそのまま残っている。

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北側(佐倉方)の様子。 路盤はしっかり残っている。ここから佐倉駅まで現行線路とはしばしお別れ。

このまま歩いていくと用水路をまたぐ小さな橋が出てくる。 B地点
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どうやら水は流れいていないようだ。すでに暗渠になっているのだろうか。
銘板は取り外されていて名前などはわからなかった。橋脚が残っているだけでも奇跡といえるが、なぜ撤去されなかったのだろうか。

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レンガ造りで、積み方はオランダ積。橋げたも残っていてかなりいい状態だ。

このまま進むと農道が路盤に登ってきて線路跡は現道へと姿を変えた。線路として使われなくなった後も農家の交通路として活用されいるのは捨てられてしまうよりよっぽどいい。

さらに進んでC地点
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農道に転用された区間も終わり舗装路にぶつかる直前の用水路を渡るところになんと枕木が。
分岐地点からここまで痕跡はしっかり見てきたのでおそらく初めて現れた枕木である。この区間を探索されてもっと手前で枕木を見つけた方がいらしたらぜひコメント欄で教えていただきたい。
この枕木はおそらく現役時代のものだと思うが何故ここだけ残ったのかはまったくもって不思議である、 興奮冷めやらぬうちに友人から報告が。

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見えづらくて申し訳ないがこの用水路をまたぐところもレンガ積みでできていた。気づかず素通りしてしまいそうなほど小さく橋桁もないのだが細かいところまでしっかりと作られている、これは総武本線の前身である総武鉄道の仕事だからこそではないだろうか。

総武本線は明治20年(1887)に佐原の伊能と、成東の安井がそれぞれ東京から船橋、千葉を通り佐原、または八街へ至る鉄道路線免許を申請したのだか、当時は船舶輸送が主流で千葉県知事から認可が下りなかった。そこで彼らは会社を合併させ明治22年(1889)に「総武鉄道」を設立させた。おそらくこれが初めて「総武」という言葉が世に放たれたときであろう。(明治20年に免許を申請した佐原の会社は武総鉄道)
陸軍施設近くを通るルートを作り陸軍の支持の上、認可を得ることに成功した。
それから5年。明治27年(1994)に市川ー佐倉間の開通を機に線路は西は両国、東は銚子まで延び、今に至る。
このように総武本線は地元の人々の鉄道への強い思いによって開通した歴史がある。
本当に小さな用水路一つにもレンガ積みの橋を架けることには、このような鉄道へのあこがれや思いが
あったのではないだろうか。

さて、話がそれすぎた。
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再びC地点である。 舗装路と交差した後は斜面の横をひたすらまっすぐ走り続ける。

だが進んでいくと何やら雲行きが怪しい。民家の前に出てしまった。どうやらこの区間は民家へのアクセス道路になっているようだ。路盤は続いているのだがまた障害があらわれた。
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路盤上にガレージが作られていた。写真右写っている車の後ろにガレージがある。
さすがに突っ切ることはできないので一度市道を通ってからガレージの裏まで行き、再び旧線跡を歩く。

ガレージより先はまったく使われていないようだ。
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左側にはコンクリート擁壁があるがこれは開業時のものではないだろう。

少し歩くと急に開けた。D地点
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今までで一番立派な築堤である。


築堤1
築堤はバラストや枕木を敷くために中央部がへこんでいるが、ここの築堤はそのへこみまできれいに残っている。
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当時はここをSLが爆走していたのだろう。一度見てみたかったものだ。

しばらく行くと築堤は急に無くなる。
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降りると…
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史跡にも登録されている亀崎橋台である E地点


奥に列車が走っている現行線路とはこれくらい離れている。
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橋台脇に設置されている案内によると桜の刻印が施されたレンガが存在するようなのだが、我々では見つけることができなかった。市が資料として保管しているのか探し方が悪かったか… いずれにしても詳細をご存知の方がいらしたらぜひご教授願いたい。

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案内板にあった写真。 手前のコンクリ製橋脚はというと…

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無残に撤去されています。 ここからF地点までは線路跡こそあるものめぼしい痕跡は見つからず。

F地点
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鹿島川の反対側。橋脚等の痕跡は見当たらず。
奥にあるのが川の堤防、右のこんもりしたところが旧線の築堤。

G地点
寺崎1
写真を撮り忘れてしまったのでグーグルマップから拝借。
F地点側から佐倉方の旧線跡を見た様子。用水路を渡り民家の敷地を通っていた。
ここから先は市街化されていて正確には辿ることはできない。
痕跡も特にないのでH地点へ。

H地点
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民家の裏に築堤がある。ここが旧線跡とみられる。

I地点
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県道から見えるところに用水路をまたぐ橋があらわれた。ここはどうやらレンガ積みではないようだ。コンクリで覆われた様子もない。

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佐倉側から物井方を見た様子。 路盤は残っているがさすがに藪が深すぎて中に入る気はしなかった(隧道探索でそんなことは微塵も思わなくなるのだが…)

そしてI地点近くで旧線跡はカーブし、今は県道となった道とともに佐倉駅へと向かっていく… はずなのだが…
どうやらここにきて面倒なことが起きた。
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事前に用意していた地理院地図に書かれている県道136号がなくなっているのだ。
ここが旧線跡なのだが… 地理院地図が更新されていなかったようだ。

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なんか…新興住宅街になっている…

地理院地図が更新されていないことなど大したことではないのだが、県道をつぶして住宅地を作ったなんて聞いたこともない。 しかもその県道を跡形もなく消し去るなんてありえていいのか… どうやら区画整理事業の一環で斜めに走る県道が邪魔で大した需要もなかったから消したようだ。 

幸いにもグーグルマップに過去の画像が残っていた。
佐倉3
上の写真とほぼ同じ位置から北側を見た写真。 あまり変化はない。

東側(佐倉方)
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相当道が変わっている。変わっているというより完全に県道は廃道と化して、新たに市道を作ったわけだから、まったく別の道なのだが。この写真は2012年に撮影されているからそれまでは県道は減益だったのだろう。

佐倉5
北側を見た様子。すでに廃道化工事が始まっていて若干線形に変更がある。本来の旧線跡、県道は重機がいるところをまっすぐ通る経路だ。

佐倉6
左に写るヒューム管は旧線の残骸だったりするのだろうかと考えてしまうがおそらく考えすぎだろう。

区画整理された住宅街を抜け、少しだけ残る県道区間にやってきた。
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法務局前から佐倉方を望む。

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ふと法務局の敷地に目をやると、こんな古レールがぽつりと置いてあった。コンクリの土台まで作られている。縁もゆかりもない古レールを持ってくることは考えにくい。もしかすると旧線の撤去時に記念に引き取ったレールかもしれない。探索日が日曜日だったため直接法務局に質問することができなかったので今後の調査課題とする。

さて、今回の探索も間もなく終わり。
J地点に到着だ。

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このまま現行線路と合流して佐倉駅へ向かい旧線区間は終了する。

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 合流地点の側溝に一か所だけ斜めになっている所を見つけた。排水管とつながっている所から見るに、旧線を撤去し側溝を作り替える際に、排水管まで敷設しなおすことを嫌った国鉄がここだ作り替えず残したものではないだろうか。地震等でずれたようには見えなかった。

さて、これで物井駅から佐倉駅まで、トータル移動距離約6キロの総武本線の旧線探索が終了した。


桜の刻印付きレンガや、法務局においてあるレールなど、今後調査すべきことも数多く残っているがそれは相当後になると思うが、机上調査したうえで記事化したいと思う。

内容について、気になった点やご指摘があればぜひ教えていただきたい。


長い記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。


引用:

使用地図:
国土地理院 地理院地図