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「京葉道路」と聞くとどこをイメージするだろうか。
 千葉県民は東京に行くときに使う高速道路、首都圏やさらに遠方の方は房総へ行くために使う高速道路だというイメージなのではないだろうか。
 だが、東京都民は一般国道の道路名のイメージが強い。東京から千葉にタクシーで帰るときに高速に乗ってもらうつもりで「京葉道路で」と言ったらずっと下道で行かれたなんて逸話があったりする。
1本の道が地域によって違う名前で呼ばれることは多くあるが、別の道が1つの名前で呼ばれることはなかなかない。

今回はそんな2つの京葉道路についての話を2回に分けてご紹介する。予定でしたがこの記事で完結となる。
第1回 京葉道路の歴史
第2回 現在の京葉道路
                                              

都民以外が多くイメージする高速道路の京葉道路は東京都江戸川区の一ノ江ランプと篠崎ランプの中間地点で、首都高速7号小松川線と接続し、市川市・船橋市を通り、千葉市中央区の蘇我ICで館山自動車道と接続する自動車専用道路である。厳密には「高速道路(高速自動車国道)」ではなく「自動車専用道路(一般国道自動車専用道路)」なので最高速度は60キロ(2019年より一部区間80キロ)だ。地図上では青線で表記している。
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赤線は国道14号線。東京都墨田区両国から千葉市中央区までを結ぶ主要国道だ。
都民はこの国道14号の都内のうち篠崎から両国までをも京葉道路と呼ぶ。
一般国道と自動車専用道路、この2つが同じ名前で呼ばれることには深い理由がある。


国道14号線の歴史は古く、江戸以前からある房総往還に起源を持つ。船橋や千葉にかけての道は戦前は海岸線を走っていたが現在は埋め立てられ、海からは遠くなってしまった。千葉市から都内の途中までは現在千葉街道と呼ばれている。
時は進み、戦後経済成長での京葉工業地域造成や総武線沿線の人口増加、モータリゼーションが進むにつれ、東京ー千葉間の交通が従来の一般国道だけでは捌ききれなくなった。そこで一ノ江橋から船橋IC間に自動車専用道路を作る計画が持ち上がった。当時はまだ高速道路や自動車専用道路は存在せず、1960年の開通時は国道14号のバイパスとしての位置付けで、自動車専用道ではなく、料金所は鬼高(市川)のみ、さらには一般道と平面交差していた。開通から1年後、京葉道路は日本初の自動車専用道となった。1963年に開通した名神高速道路が日本初の高速道路なのは有名だが、その2年前の1961年に京葉道路が日本初の自動車専用道路となったのはあまり有名ではない。バイパスであると述べた通り、この京葉道路は東北道や東名高速などと違い、あくまで国道14号線である。(千葉方の一部は国道16号扱い)


ここからは京葉道路開通の歴史を航空写真とともに見ていく。

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この写真は国道14号一之江橋付近の1948年の航空写真と、現在の地図である。
一之江橋は新中川を渡るのだが、新中川は当時開削されておらず一之江より先の国道14号もできていない。一方地図内の東小松川の交差点から北に向かっている国道も14号である。東小松川から国号14号は二手に別れ、一方は小岩付近を通り市川に抜ける。こちらは千葉街道と呼ばれ古くからある道で、本来の国道14号、つまり房総往還と呼ばれていた時代からの道は荒川の掘削などでルートの変遷はあるものの、概ねこの北へ向かう道が原型である。


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これは1957年に撮影された一之江付近の航空写真だ。新中川の開削も進み、川の手前まで国道14号が延伸しているのがわかる。この3年後の1960年にこの新中川に架かる一ノ江橋から船橋ICまで「京葉道路」として開通した。(重要なので覚えておいていただきたい)前述したように開通直後は自動車専用道ではなく、有料バイパスの位置付けであり、料金所も鬼高のみで平面交差も40箇所ほどあった。少し前まではよくあったタイプの道だが、ほとんどの道路は建設費の回収が終わり無料化されている。要するに京葉道路は建設費の回収が終わっておらず今だに有料道路なのだ。
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開通直後の京葉道路市川付近の航空写真 写真右の道幅の広い部分が鬼高料金所(現京葉市川PA)
鬼高料金所の右側に平面交差が確認できる。

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 さて、開通から一年後に京葉道路は自動車専用道路となったのだが、道路構造に変化はなかった。
その後千葉市方面へ路線が伸びるのだが、この頃には名神高速道路が開通し、高速道路の規格がある程度決まってきたため、京葉道路もその例に倣い平面交差が存在しないように建設が続けられ、1966年には幕張ICまで開通した。
 その頃、今度は飛行機需要の増加による羽田空港の拡張が検討されたが、それでも需要に対応しきれないことから、成田に新空港を建設することが決定された。そして東京と成田空港間の連絡道路として、東京側は首都高速7号小松川線、空港側は新空港自動車道(現東関東自動車道)の建設が計画され、それらを結ぶ道路として京葉道路が活用されることになった。
しかし、京葉道路の初期開通区間は平面交差だらけで空港アクセス道としては使えない単なるバイパスであったため、改良工事が行われ、首都高速7号小松川線と谷河内(篠崎付近)で接続が行われた。小松川線の開通と同時に篠崎ー市川、半年後に船橋までの6車線化が行われ、平面交差も解消され、現在のような道路状況となった。

ここまでが大まかな京葉道路の歴史なのだが、1つ不思議なことが起きていることにお気づきだろうか。
京葉道路の開通起点と首都高速との接続地点が違うのだ。

一之江から開通していた京葉道路と首都高は篠崎で合流しているのだが、この間にジャンクションは存在しない。では、一之江から篠崎まではどうなってしまったのだろうか。

自動車専用道指定解除


日本初の自動車専用道路に指定された京葉道路はわずか10年で一部区間が指定解除となってしまった。
おそらく日本で初めて自動車専用道路に指定され、日本で初めて自動車専用道路を解除されて路線であろう。自動車専用道が解除された区間にも注目すべきものが色々とあるのでこの区間の実踏調査は第2回の記事でまとめる。

さて、東京都は一之江橋から船橋まで京葉道路が開通したのち、一ノ江橋から両国までの国道14号の通称名を京葉道路とした。開通時は首都高速7号は建設されていないので、船橋から京葉道路に乗り、道なりに進めば両国まで行けるので道路の通称名としては適切なはずだった。しかしながら先述のように首都高と接続し、千葉県内の京葉道路は千葉市内へ伸び、成田新空港とも新空港道経由で接続されるなど京葉道路のイメージがバイパスから高速道路に変わってしまった。しかし、一度設定した道路名称を変更することもなく、京葉道路は都内の街道名称と、東京都千葉を結ぶ高速道路名という2つのイメージを持つ道となった。

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京葉道路開通から現在までの変遷

このように京葉道路は時代や情勢の変化によって道のあり方がめまぐるしく変わってきた歴史を持つ興味深い道路なのだ。次回は自動車専用道路の指定が解除された区間の実踏調査編を掲載する予定だがいつになることやら…。
ご覧いただきありがとうございました。



参考文献:
朝日新聞 1961年8月15日夕刊 「京葉道路 今日から自動車専用に」
公益社団法人 日本道路協会 月刊誌 「道路」 各巻

使用地図:
国土地理院 地理院地図


 

前回は鉄道遺構のレポートをしたが、今回は初めての道路レポートになる。

1本目のレポートにしていいのか躊躇うほどの大物を釣り上げてしまった気もするが、気にせず書いていこう。

今回紹介する隧道は 旭隧道 だ

大して有名でもないので私も前まで全く知らなかった。
旭隧道は新潟県三条市にある手掘りの隧道である。
旭隧道
旭隧道
中央に見える点線が旭隧道だ。
信越本線東光寺駅から徒歩で40分、タクシーなら10分ほどとアクセスのしやすい隧道だ。




まずは驚愕の旭隧道のスペックについて。
隧道マニアにはおなじみの全国トンネルリストによると、開通は昭和29年、全長は763m、幅員2.1m、有効高1.7m、壁面区分素掘り、現状は制限付自動車通行可ってる。また、隧道を抜けた先にある神社(後述)のHPによると掘削方法は手掘りだそうだ。聞いただけでもすごい

2017年8月現在、日本最長の手掘り隧道は同じく新潟県の長岡市山古志にある全長877mの「手掘り中山隧道」であるが、こちらは現在自動車通行不能なため自動車が通れる手掘り隧道では旭隧道が最長なのではないだろうか。だが、同リストによると中山隧道は内装が吹き付けとなっているため、掲載されているトンネルのうち、内装が素掘りの隧道では全国一位である。(調査漏れがああれば申し訳ない)
新潟の片田舎にある何の変哲もない隧道がまさか素掘り隧道日本一だとは探索前は一切知らなかった。

(手掘りと素掘りの違いについて)
手掘り隧道:機械を使わず手で扱う道具で堀った隧道
素掘り隧道:掘削後の地肌のままの状態の隧道


前置きが長くなったがこの隧道を探索することになった経緯も含めて書いていこうと思う。もともと私は鉄道撮影のために何度も新潟に足を運んでいたのだが、そのうち三条市に長大手掘り隧道があるという情報を得た。過去にナニコレ珍百景で紹介されたことがあるらしく(出典不明)検索するとすぐに旭隧道がヒットした。そして隧道認知から3か月経った8月に探索することとなった。
最寄りの東光寺駅からは徒歩40分もかかるのでタクシーを使うことにした。



東光寺駅
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タクシーに乗ったのは単に歩くのが面倒だからというだけではなく、隧道や地元の情報を仕入れたかったからだ。なにせ東光寺駅前には駐輪場以外本当に何もない。タクシーも常駐していないので事前に予約しておいた。ここらは東京と違って配車料金がからないからありがたい。早速乗り込んだタクシーで運転手に隧道について聞いてみたら、「隧道までは行ったことがないから詳しいことはわからないが隧道の先に人が一人住んでいる」とのことだった。隧道の先に世界一神社という不思議な名前の神社があり、そこの神主さんが隧道を使っているという話は事前に調べていたが、住んでいるという話は初めて聞いた。どちらにせよ定期的に利用している人はいるのだ。
10分もかからないうちに隧道手前にある「吉野屋」という牛丼屋みたいな集落にたどり着き、さらに道を進んでいくと旭隧道がぽっかりと口を開けているところに到着する。隧道前には車を回転させられるスペースもある。

隧道を背に広場を望む。来た道は右側に伸びている。

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運転手さんに「1時間後にまたここへ来てもらえますか」と聞いたところ、「奥まっていてここまでの道がわかるタクシーが捕まるかわからないからここで待っているよ」と言われたので待っていただくことにした。そのため重いリュックを放置してカメラだけ持って突撃できたので非常に感謝している。

いよいよ隧道内に進行していく。
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吉野屋側入り口は入ってすぐにカーブしているため真っ暗だ。
トンネルの上になぜか滝があり、横から水が流れている。かなり大きな音を立てて流れている。
過去には中越地震で崩落があったため通行止めになっていたこともあるようだが、今は解除されている。しばらく晴れた日が続いた後での探索だったがかなりの水量があり、雨の跡ならばさらに水量が増すのだろう。そんな日は隧道を通行することはできるのだろうか。

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あれ、素掘りではなかったのか。
ものすごい騙された気がしたがここまで来て帰るわけにもいかない。
入り口はコンクリート巻きになっていてすぐに右カーブだ。

隧道内は3~5センチほどの水位で水が流れている。防水の運動靴でも入れるがこの先でかなり汚れる上に日によって水位は違うので探索には長靴をお勧めする。

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しばらく行くとコンクリート吹付(またはモルタル)になる。
吹付部は補強のためにアンカーらしきものが打たれているがこれが不気味だ。
どうやらこのコンクリ巻きは開通後に作られたもののようだ。たびたび地震に見舞われているうえに、坑口の上に滝がある環境でもあることから補強をしたようだ。隧道リスト更新してくれ…。


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地震で崩落した箇所だろうか ビニールシートがかけられている。集落の最奥にあり利用者も少ないがちゃんと手入れがされているということがわかる。一見死んでいる道のようでも名前も知らない誰かが利用し、手入れもされている様子を見るとうれしくなる。実際は歩いても歩いても出口の光が近づかない恐怖で探索時はそんなことを微塵も考えていなかったことは秘密である。(私は結構怖がり)

しばらく進むとまた内装が変わる。
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昔はもっと素掘り区間が長かったようなのだが地震の影響で年々コンクリ補強されているようだ。
後日調べたところ、ここ数年でも補強工事が行われており、数億円もの税金が投入されているらしい。そんなに費用投入をするほど交通量があるようにも見えないし、代替路もあるはずなのだが、この隧道を使い続けたい理由が何かあるのだろうか。導入が長くなってしまったせいでまだ入ってきたばかりだが続きは次回。 上の画像からもわかるがいよいよ素掘り区間に突入するが比べ物にならない不気味さとなる。

次回 長大手掘り隧道の素掘り区間へ







編集後記
数ある記事の中からお読みいただきありがとうございます。このブログ2本目の記事のためまだまだ内容が拙く、読みづらい点が多くあったかと思います。是非とも至らなかった点をコメントで教えていただけると大変ありがたいです。改善提案や内容の間違い、誤字脱字等もご指摘をいただければと思っています。今回は二本目の記事のくせにわざわざ新潟のネタを持ってきましたが、ぼーっとしていたら記事投稿が探索から3か月もたってしまいました。隧道は新品よりも古いもののほうが味が出て感動できますが、記事も熟成させて見ごたえのあるものになったということで一つよろしくお願い致します(笑) 三篇構成にする予定ですので次回は中編となります。3か月後にならないよう気を付けますので、中編もご覧いただければ幸いです。

使用地図:
国土地理院 地理院地図

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